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愛は重荷

恋を語る詩人になれなくて。

批評は面白くなり得ないのか? ――シンゴジラとファンタビの『ユリイカ』について

新しいユリイカが発売された。シン・ゴジラと、ファンタスティック・ビースト(およびハリーポッターシリーズ)について。シン・ゴジラは少し値段が高かった。増刊号ということで分量が多かったからだろうか。そのぶん目次が赤かったりしてかっこよくはあった。

シン・ゴジラ』も『ファンタスティック・ビースト』も、面白く見た。というか、かなりワクワクする類の面白い映画だった。何度も見たくなるような伏線、細部まで凝ってある仕掛け、勢いのある俳優陣……まさに終わった後に「語りたくなる」映画たちだった。見た後に友達と「あそこがよかった」「ここがよかった」と語ったし、SNS上で繰り広げられる感想や二次創作の繁栄っぷりも楽しかった。

ユリイカが、このふたつを特集したと聞いて、楽しみにしていた。これらの映画の仕組みを、もっと知りたい。これらの映画について、どんなふうにワクワクするような論が展開されるのか、もっと聞きたい。もっと、もっと、私はこの映画を噛み砕いて噛み砕いて、料理し直したい。

 

だけど、―――面白くなかったのである。ユリイカ

 

あのワクワクする世界を前にして、こんなふうにしか調理できないのだろうか。どれもこれも、つぎはぎを柔らかく焼いただけの論にしか見えない。味がしない。ささやかすぎる。あの映画館をあとにした時の「ああ、この映画についてはやく語りたーーーーーいっ」と思った、あの、ワクワク感が、どこにもない。

つまらない。

 

別にユリイカを批判したい訳ではない。

ただ、私は大学院で文学研究を勉強していて、批評というものに普通よりもちょっと期待と興味を抱いていて、ユリイカも割と好きでよく読んでて、だからこそ。

「批評って、こんなつまらん文章だっけ」と思ってしまった。

 

批評の一番の目的地は、「読みを変えること」にあると思っている。

私は今まで、「ああ、私って全然きちんと読めてなかったのか」と愕然とさせられるような批評にいくつも出会ってきた。「そうか、この作品ってこんなに面白かったのか」と思わざるをえないような批評。―――私はまだこの世界を全く分かっていなかったのだ、と思った時の、あの、絶望と興奮。あの瞬間を読者にもたらすことこそが批評の快楽である。

こんな風に読めるのか。実はこんな物語だったのか。

読みが変わった瞬間、本気で世界が変わったように見える。

批評ができることというのは、作品を通して、読者の見てる世界を変えること、でしかない。

 

だとすれば。シン・ゴジラも、ファンタスティック・ビーストも、あんなにあんなに面白くて、映画館を出た後の世界の色が変わったみたいな興奮に満ちていて、スリルとロマンとサスペンスが詰め込まれていて、あんなにたくさんの人が熱狂していて、そんな作品に対して―――もっともっと批評は、スリリングに、面白くなり得ないのか?

ほかのだれでもない、ただその作品を好きなだけの、ファンにとって。

批評は、批評した作品よりも面白いような作品になり得ないのだろうか?

 

ユリイカに載った批評家による批評の目指す地点は、「面白い」ではないのだろう。たぶん。学術界の評価なのか、自分の尺度なのか、ある種の論理的説得性と新規制なのか。私は全くそのどれらも間違ってると思わない。分かりやすければいいという風潮にも反対だ。分かりやすくなくても、新規性と説得力さえあればいい。論文というのはそういうものだからだ。

だけど同時に、それは批評単体として見た評価でしかない。一歩引いてみれば、批評を取り巻く関係性の中に、作品も読者も批評の読者も存在している。

批評は、作品にとって、どんな存在であり得たいのだろうか。

 

そんなことを考えてしまう「ユリイカ」であった。

この疑問に対して一般的な回答はまだ決まっていない(あれば教えて欲しい、ほんとうに。)

でも、私個人はというと、やっぱり例え作者に読まれてもおばあちゃんに読まれても、胸を張れるような「面白い」論文を書きたい。だって私よりずっとずっと大きな存在に手を届かせてもらってるのだ。巨人の肩の上に乗って、世界についてあーだこーだ言わせてもらってるのだ。私ひとりじゃ到底届かないくぼみに、作品を通して出会わせてもらってるのだ。

作品に対して真摯にありたい。それが、せめて批評家にしても読者にしてもファンにしても、その作品に「ワクワクさせてもらった」私の、誠実なあり方だ。 

そしてつまりはそれが世界への真摯さだと思う、のである。

 

追伸:シンゴジラ高橋洋さんの論は唯一ワクワクした。面白かった。