愚者の賦―万葉閑談 伊藤 博

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万葉集釈注」の著者が、長年雑誌などに発表した随筆や、講演録など、万葉集に関わりのあるテーマを一冊にまとめた。

 

ほんとうに随筆集でした……。

しかし卒論の話はすごいな。

万葉集秀歌100選があったのがよかった。

石原千秋 テクストはまちがわない

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近代文学研究のフィールドでは、「作者」に死が宣告され、「テクスト」という考え方が受け入れられて久しい。本書では「テクスト」それ自身を徹底して読み込むことで「読者」の位置を炙りだす。漱石、芥川、太宰から村上春樹吉本ばななまで、縦横無尽に構造分析を試みる「文学テクスト論」の最前線。

 

ほんとに論文集だった。

石原千秋の「こころがオイディプスである(K先生のライバル関係を先生青年が模倣する)」っていう論はすっごい好きだしクリティカルでいいのだけど、近年ではちゃんと「文学研究が外部に開かなきゃ!」っていう意識を持ってるのはすごいよなと思う。がんばってほしい。テクスト論その他はもはや染みわたっているので飛ばし読んだ。(それにしても阿部先生にしてもこのひとにしても、吉本ばななの目くばせを「女」として読みすぎでは……いやまぁその通りなんだけど、それそんな大切か?ってツッコミたい)

 

それにしても、これ読んで分かったのだけど、大江健三郎小島信夫石原慎太郎古井由吉を今いまいち読みにくい(明治や大正の文豪よりも本屋にも置いていないよね?)のは、アメリカという国の表象のせいなのかもしれない。

日本文学のテーマとしての自意識の空転というのは明治だろうと現代だろうと大して変わっていなくて、だから村上春樹太宰治は同じだなんて言われる。結局近代的自我というものを抜きにしても、自意識ぐらぐらが多いのが日本という国なんだから。

だけど、戦後すぐの作家は基本的に「アメリカ」という国の影を強く背負っていて(このへん加藤典洋案件ですね)、アメリカ兵がすぐ小説に出てきたりメタファーとして登場したりする。この感覚が、今の若い私たちにはわかりにくいんだろうなーと。やっぱりアメリカの属国であるといくら言われたところで、マックは行くわマドンナ聴くわの世界だと厳しいものがある……。このへんの肌感覚がないからこそ、60年代の小説って読みにくいんだなぁ。

その脱臭化として村上春樹が出てきて、日本文学はがつっとそっちへ行ってしまった。だから余計に今はもうよく分からない感覚になってしまってるのだろう。

そう思うと、近代と現代の境目はやっぱりグローバル化にあるのだなー。現代の批評家に頑張ってほしいところである。

阿部 公彦 小説的思考のススメ: 「気になる部分」だらけの日本文学

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【内容紹介】
大江健三郎の作品が〈何となく頭に入らない〉のはなぜ? 太宰治の登場人物が〈丁寧〉に喋るのはどうして? 佐伯一麦の主人公がいつも〈私〉のわけは?――気になる部分に注目すれば、作品に凝らされた仕掛けが見えてくる。読み方のコツを知り、このジャンルに独特な“頭の働き"を鍛える小説入門。

【主要目次】
はじめに――小説には読み方がある
I 「一字一句」を読む
第1章 太宰治『斜陽』――やけに丁寧にしゃべる人ですね
第2章 夏目漱石『明暗』――この会話は何を隠しているのでしょう?
第3章 辻原登「家族写真」――「は」の小説と「が」の小説
II 「女の言葉」に耳をすます
第4章 よしもとばなな「キッチン」――いきなり「好き」はないでしょう?
第5章 絲山秋子「袋小路の男」――ずいぶん小さな声の語り手です
第6章 吉田修一『悪人』――女の人はみな嘘をつくのですか?
III 「私」の裏を見る
第7章 志賀直哉「流行感冒」――「名文」って何ですか?
第8章 佐伯一麦「行人塚」――「私」が肝心なときに遅れるのはなぜ?
IV 「小説がわかる」ということ
第9章 大江健三郎『美しいアナベル・リイ』――そんなところから声が聞こえるなんて
第10章 古井由吉妻隠」――頭は使わないほうがいいのでしょうか?
第11章 小島信夫抱擁家族』――この居心地の悪さはすごい!
読書案内
おわりに――小説は宝の山

 

うーん、これも阿部先生なのだがいまいちだった。あまりにどれも読みを変えようとしていなくて、従来の読みの補強のための細部、という構造になってしまった印象。

ただ吉田修一の『悪人』論はよかった。物と言葉の入れ替えという視点を真実と嘘の揺らぎに持っていったのはなるほどなーと思った。

 

以下は参考になりそうだったため、めも。阿部先生おすすめの批評本とのこと。こーいうもの選ぶのか―とまぁ納得。福田和也よまねば。

蓮實重彦「表層批評宣言」「物語批判序説」「夏目漱石論」

柄谷行人「畏怖する人間」「日本近代文学の起源

高橋源一郎文学じゃないかもしれない症候群

福田和也「日本の家郷」

→まとめたのが「ニッポンの思想」(佐々木敦

 

漱石はどう読まれてきたか (新潮選書)

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近代文学が一気に開花した明治後期、漱石文学はどのように評価されたのか。100年後の今も読み継がれる、その魅力とは何か。何万ともいわれる評論・論文のなかから、「個性的な読み」「画期的な読み」を厳選して、「定説を読み換える論」「文化的・歴史的背景に位置づける論」「小説の“なぜ”に答える、意味付ける論」に分類し、その醍醐味と意義を大胆に分析する。

 

一体文学部の国文学科は何をやってんだと言われたら、そっとこの本を差し出したい……。もっと売れよーぜこの本っと言いたくなる。

新しい読みでないと商品にならない!という葉っぱ掛けは背筋の伸びるところ。①~➃の分類も面白かった。あと弟子の女の人についての言葉が一番面白かったです。先生冥利に尽きる父殺しの光景。

以下メモ。

 

・坊ちゃんの語りについてのツッコミは石山徹朗が生んだとは露知らず!

小宮豊隆(1937)が則天去私の枠組みつくったのね

・で、これを破ったうえで「我執」を説いたのが江藤淳だと(同じ穴の狢)

・道草に他者がいるby江藤はほんとにそうだな

荒正人フロイト読みはいいんだけどなぜこころでなく夢十夜なのだ

・越智治男は石原千秋でも読みにくいのか

 

それ以降は面白げな論文ばっかだったからせっせと読もうと思ったのでした。しっかし集める時間がなー。夏休みとか一日かけて漱石デーをつくろうかしらん。

幼さという戦略 「かわいい」と成熟の物語作法 (朝日選書)

www.amazon.co.jp

「幼さ」のあふれる現代の日本。
漫画のキャラクターから生活小物に至るまで、
目につくのは無害で安心感の漂う
幼さ、弱さ、かわいさばかり。

消費文化の中心は善良な弱者たる個人の欲望で、
人々は「幼さ」を社会構造の中で強要されてきたと言える。
成熟して「大人」になるというライフサイクルは揺らぎ、
大人も老人も生涯を通じ「幼さ」を演ずる。

しかし、そんな「幼さ」が自ら声を持って語るとき、
独特の魔力をたたえた不思議な磁場が生まれることがある。

本書では太宰治人間失格』の弱さや
村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の
依存性に注目しながら「幼さ」特有の
心理、美学、思想を確認し、その潜在力をさぐる。

谷川俊太郎武田百合子ルイス・キャロルに加え、
成熟や老いと格闘した江藤淳古井由吉も題材となる。

気鋭の文芸評論家が
精緻に幼さの語りの豊かな可能性を探る
興味尽きぬエッセイ。(amazon

↑ え、エッセイにされてら。笑

れっきとした文芸評論。ただ阿部公彦にしてはもう一歩踏み込みが足らなかったという印象。

 

「かわいい」は現代日本特有の語彙として語られやすいが、決してそうではない。有名な「崇高(=恐怖)」と「美しさ(=安心)」byバークの対比から言うと、美しさの延長線上にキュートさがあると位置づけられるし、それは13世紀イタリアで定着したソネット形式(=小さくまとまった甘美を表現)にも見出すことができる。ちなみに英語圏でも近年cuteについての注目が高まり、サイアン・ナイの「私たちの美の枠組み」は19世紀イギリスのdomestic realm(家庭が独立した価値観に支えられるということ)を統べる美意識としてcuteが生まれたと説いているらしい。

日本では枕草子にもその原典が見出され(これ吉岡洋先生も言ってましたね)、四方田犬彦の『「かわいい」論』では未成熟に美を見出す姿勢として挙げられている。土居の『甘えの構造』には未成熟さを前提とした相互依存という形で日本文化は保たれてきたとあるが、それに近い美学かもしれない。

阿部はそんな「かわいい」に対して、未成熟や幼さや弱さこそが人を支配し得る力になると言う。たとえば武田百合子の「覚えてるまま書く」方式については、完璧であるという前提を捨て叱られ許されることをふまえて自由に書く、という「やわらかい脱力」を受けとめる読者を要請すると言う。太宰の人間失格も、明瞭なことを避けておどおどする頼り無さこそがやわらかさを呼び、読者をひきつけるという。エリオットやルイスキャロルやジョイスは幼い語りこそが文明以前理性以前の無意識や混沌を表現できるとする。つまりは言葉のコントロールを手放すということ。どれらもキーワードは「規範からの逸脱」だ。

消費は基本的に相手を幼いものとして見ることを前提とするから私たちは「幼いほうが楽しめる」社会に生きてるわけだし、オタクもまた成熟拒否の一環だ。そんな現代では逆に「老い」に「弱さ」を見出したりもする。(介護小説が流行ってるらしい)

 

とまぁこのへんは「ふーんせやろな」くらいの議論なんだけど、一番面白かったのは江藤淳大塚英志の話。

江藤の『成熟と喪失』は有名な評論だけど、その「母と息子の粘着性の高さ(成熟拒否の呪いと、息子の幼児性)」論は、要は江藤自身の同族嫌悪であった。成熟したあとは空虚しかない、喪失感の空洞の中に湧いてくる「悪」を引き受けるのが成熟だ、という結論は、要は江藤と妻のあいだに母息子に似た癒着があったからだし、そして江藤がサブカルを否定するわりに「つるり」としたかわいいものを愛でる姿勢に成熟しつつも息子で居続ける葛藤を見出す。そしてその軋轢を妻が引き受けたのだ、と大塚は言う。(『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』)

江藤の語りの明瞭さそれ自体が成熟の証拠だ。だとしたら、むしろ批評は「明瞭なもの」を語り得ない。混濁を明瞭にするのが批評だからだ。だけど「幼さの文化」は過剰に明瞭(=批評を有効にしない)(つるりとしている)(わかりやすく、くっきりした輪郭とともに造形される)のだとしたら、江藤は構造的にサブカルを語り得なかったのではないか、とするのが阿部の論。これはなるほどなと思った。

 

あとちょっと浮いてんなと思ったのが、村上春樹論。多崎つくるを題材に、「静寂」こそが会話を邪魔されずに雑音なしに遂行させ、それは村上的自然さに繋がると言う。雑音に満ちたこの世界で、規範を見出したいのが村上の主人公なのである。それは村上が「耳を傾ける」作家だから。

羊の静寂について考えてたところだったからふーむと思いつつ読んだ。成熟拒否と村上春樹は大きいテーマで、それはたぶん現代とか日本とかいう国にもくっきり通じている。もうちょっと掘り下げたいとこ。